アウトサイダーに告ぐ |
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第一部
ザ・タイムズ・ゼイアー・チェンジン
(3)
キルケゴールは可能性へ依存しない方法としてキリスト教を採用したわけであるが、もう一人の実存主義者であるカミュはどうであろうか。アルベール・カミュ、ノーベル文学賞を受賞した彼の「アウトサイダー」への一番の貢献はやはり「異邦人」に他ならない。
小説「異邦人」は、アルジェリアに暮らす主人公ムルソーがふとしたことでアラブ人を射殺してしまい、その罪で死刑となるというのがそのストーリーである。ムルソーは一見して「アウトサイダー」ではないかの如く見える。彼を突き動かす欲求は存在しないかに思えるからである。だが、彼は彼が主人公を任ぜられているそれの名に恥じぬ「アウトサイダー」である。彼には欲求が存在しないのではなく、むしろ欲求そのままに生きているのである。
ムルソーは終始淡々としている。彼はアラブ人射殺についての裁判にて、自らの母が死んだ時ですら涙を流さなかったことを中心に、如何に彼自身が冷酷な人間であるかを語られてしまう。その上、殺人の動機はと聞かれれば彼は「太陽が眩しかったから」と述べるのである。この、一般人の感覚からすると異常と思われる彼の心の動きにこそ、かの「アウトサイダー」特有の欲求が隠されている。欲求は満たされていない時ほど強く意識されるが、その欲求のままに動作させられている時はさほど意識されないものである。ムルソーは欲求がそのような心の動きをすることこそにあるので、欲求が存在しないかの如く見えるのである。
さて、こうして彼が「アウトサイダー」であることが判明したところで、彼がどう「アウトサイダーの問題」へ資するかを検討していくとしよう。彼が資するのは小説の終盤で彼が「私は幸福だったし、幸福だ」と悟る部分である。彼は懺悔を促す司祭へ思いの丈を語った後にそう悟るわけだが、これはキルケゴールに起こったことと等しい現象なのである。つまり、ムルソーも可能性が現実によって否定されたことによって幸福という絶対を選択したのだ。
彼について語られるべきことは、これで十分である。キルケゴールを考察したために、カミュのムルソーについては簡潔に終わらせることができる。キルケゴールの「キリスト教」を選択することとムルソーの「幸福」を選択することは完璧に一致するからだ。だがここで「キルケゴールの選択はわかるが、ムルソーの選択は?」と思われる方もあるかもしれない。残念ながら、それは筋違いである。もしそう思われているならば、キルケゴールの選択についてもあなたが思われているレベルの選択ではないと断言しなければならない。ムルソーの選択のレベルでキルケゴールは選択を行っているのであり、故に彼は自らの著作において口酸っぱく「単独者」などと述べているのである。別の言い方をすれば、実存主義的「アウトサイダー」の選択はサルトルの「実存主義」教の選択ではないということである。彼らの選択というものがどういうものかということは「アウトサイダーの問題」とは違う話題なので、次の一言でもって「アウトサイダー」へは十分だろうと判断して終わりとしよう。キルケゴールとムルソーの選択のレベルは一般の理性的なものではなく、西田幾多郎の展開した思想の範疇のものである。
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